■コラム第2話 平治号 2005/10/05
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やまなみハイウェイ沿いの長者原ビジターセンター横から、九重連山を見つめている犬の像をご存知だろうか?
くじゅう登山をされる方のほとんどが、平治のことを知っていると思いますが
時代が流れ、平治伝説が風化しないように、今回はガイド犬「平治号」について一筆書きたいと思います。
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昭和48年の夏、長者原登山口に捨てられていた子犬を、バスの切符売りの方が面倒を見るよ
うになりました。はじめは白い毛が半分抜け落ちて皮膚病にかかっている痩せた犬でした。
お弁当を分けてもらえるからか、登山客と一緒に山を登るようになったのです。
ある日、九重連山に慣れていない夫婦が道迷いをしたときに、白い犬が長者原登山口まで連れて
行きました。命拾いをした夫婦は、飼い主に犬の皮膚病を治してくださいとお金を置いていきま
す。それから皮膚病も完治して、その犬は立派な秋田県のメスということがわかりました。
この時期がガイド犬「平治号」の誕生でした。名前の由来は、平治岳にちなんで命名されたもの
です。それから飼い主と一緒に何度も訓練を重ね、体格もしっかりしてきて頼もしいガイド犬に
なっていきました。
平治はとても気持ちが優しい犬だったようで、人に向かって吠えたり、噛んだりは決してしません
でした。登山客のペースに合わせて、ゆっくりと先頭を進んでいきます。分かれ道になると
必ず、立ち止まって待っています。登山客が小屋で休憩しているときも、決して中には入らず
外に座って待ちます。そして言葉が解るかのように目的地まで連れて行ってたそうです。
ガスにまかれた人、吹雪で立ち往生している人、夜の登山の同行など、たくさんの人の救いと
励ましになってきました。
それから平治は登山客の人気者になっていきます。しかし、マスコミなどが平治を取り上げて
心無い人が、わざと平治を違う道に連れていったりして車道から帰ってくることもあったようです。
車のよけ方までは知らない平治は、きっと戸惑いながら帰ってきたと思います。
平治は子供も生みました。数年のあいだに10匹以上は生んだようです。
しかし、そのほとんどは貰われて行きました。そのことを知ってか知らずか雨ヶ池まで行って
こっそり生んでたこともあったようです。
月日は流れ、13年目の頃から急激に平治が衰えて行きます。
人間にしてみると老人です。耳も遠くなり、足を引きずるようになります。平治は山が好きなので
いつまでも登ろうとします。しかし、ある日、三俣山の急勾配でどうしても登ることができなくなり
ました。その時、平治はとても悲しげな目をして同行した登山客を見ていたそうです。
昭和63年6月11日。くじゅう山開きの前夜祭で平治の引退式が行われました。
当日400人が見守る中、平治の首輪は外され、2代目となるチビの首につけられました。
昭和63年8月3日の早朝。平治は星生キャンプ場で倒れました。
飼い主が飛んで駆けつけたときには、手足を震わせながら瀕死の状態でした。
平治は前日、登山客を山に案内して必死で星生キャンプ場まで連れて帰って力尽きたようです。
飼い主は一旦、職場に戻り昼過ぎに再び平治の元に戻ったとき・・・
平治は既に力尽きていました。周りのキャンパーや登山者は、泣き崩れました。
飼い主は「長い間、ご苦労だったなぁ、ありがとう平治」心の中でつぶやきながら
登山口まで、かついでおりて行ったそうです。
平治の像の横には、「平治の墓」があります。
登山客が手を合わせているのを、よくみかけます。
人間でも難しいことを、平治は14年間やってきました。
亡くなった今でも、平治に教えられるところはたくさんあります。
人間特有の虚栄心や体裁、見返りや傲慢を改めること。
また、謙虚さと前向きな気持ちを思い出させてくれます。
5年前(平成12年)の2月。ひどい吹雪の中、中岳付近の池ノ小屋で休憩していたら
登山客と犬が一匹入ってきました。「長者原からずっときいてきたんですよ。」
「へぇ、平治号みたいですね」そんな会話をした覚えがあります。
休憩後、その登山者が出て行くと、その犬も一緒に下山してました。
今思えば、あれは平成の平治号だったのかも知れませんね。
今回のコラムには「ありがとう!山のガイド犬平治」を参考にさせていただきま した。当時の平治を知っている人のエピソードなどがたくさん書かれていて、ほんとに読み応えがありました。興味のある方は是非、ご一読してください。
ありがとう!山のガイド犬「平治」 |
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